命の痛みと恵み

私たちの人生には、命の痛みと恵みが様々な形で姿を現します。痛みとは喪失のことであり、剥がされたり零れ落ちたりしたことへの悲嘆です。恵みとは有限の相でありながらも、人知を超えた大いなるものと離れていない確信です。
その痛みと恵みは対立してあるものではなく、命のなかで融和しています。ですから、痛みを体験することでしか受け取れない恵みもあるのです。

 

先日、講演を終えた控室に、話しを聞いて欲しいと女性が訪れました。彼女は仰いました。
「私はこれまで祖母、両親、義父母、兄弟、息子、夫を見送ってきました。死別は本当に辛い体験でした。独りの暮らしのなんともいえない寂しさで、自分も死ねばどうなるのか、そればかりを考えるようになりました。ですが、鬱鬱として過ごしていたある朝、いつものようにお仏壇にお茶をお供えしている時に、すっと晴れやかな気持ちを感じたのです。私の実家ではお仏壇やお墓にお参りをする時に、祖母や両親はお経ではなく呪文を唱えておりました。幼い頃から私もそれを覚え、嫁いでからも同じようにしていました。呪文を唱えているということすら忘れていたようなぐらい当たり前にしていたのに、自分がお唱えしていた呪文が耳に入ってきた時に、答えを得た気がしたのです。その呪文こそが「死ねばどうなるか」の答えだったのです。」

 

私は身を乗り出して「それはどんな呪文ですか」とお尋ねすると、彼女は「あのね」と声を潜め、「山鳥の ほろほろと鳴く 声きけば ちちかとぞ思ふ ははかとぞ思ふ」と大切なものを手渡すようかのように教えてくださいました。
私も声を落として「行基菩薩ですね」と申し上げると、彼女は軽く頷いて「命は生まれ変われるものでした。消えて無くなるものではありませんでした。また、どこかにか生まれ、懐かしい人たちと会える。だから、死は寂しいことではなかったの」と命の恵みをしっかりと言葉にされたのです。

 

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