死後、私たちは何処に行くのでしょうか。
霊や魂になって地獄や浄土、天国や黄泉の国に行くと答える方もいれば、「人間、死ねばおしまいよ」と考える方もいるでしょう。魂としてずっとあなたのそばにいる、また、大自然に還っていくという流行り歌もあります。
仏教は無我説に基づいて、不滅の霊魂の存在に否定的です。
けれども、「死ねば終わり」という考え方ではありません。
私は思うのです。教理とともに情緒も忘れたくない、と。
だからこそ、「追憶としての死者の人格」を認めないでおられず、思いを凝らして故人との出会いを喜び、その別れに学ぶことできるはずであると。
次の祈りの言葉は、日野原重明先生が奥様と死別された際に用いられて、心の拠り所とされたそうです。
天に一人を増しぬ
セラ・ゲラルデナ・ストック作 植村正久訳
家には一人を減じたり 楽しき団欒は破れたり
愛する顔 いつもの席に見えぬぞ悲しき
さはれ 天に一人を増しぬ 清められ 救はれ
全うせられしもの一人を
家には一人を減じたり 帰るを迎ふる声一つ見えずなりぬ
行くを送る言葉 一つ消え失せぬ
別るることの絶えてなき浜辺に
一つの霊魂は上陸せり 天に一人を増しぬ
家には一人を減じたり 門を入るにも死別の哀れにたえず
内に入れば空きし席を見るも涙なり
さはれ はるか彼方に 我らの行くを待ちつつ
天に一人を増しぬ
家には一人を減じたり 弱く浅ましき人情の霧立ち蔽いて
歩みもしどろに 目も暗し
さはれ みくらよりの日の輝き出でぬ
天に一人を増しぬ
げに天に一人を増しぬ 土の型にねじこまれて
キリストを見るの目暗く 愛の冷ややかなること
いかで我らの家なるべき 顔を合はせて吾が君を見まつらん
かしここそ家なれ また天なれ
地には一人を減じたり その苦痛 悲哀 労働を分つべき一人を減じたり
旅人の日ごとの十字架をになふべき一人を減じたり
さはれ あがなわれし霊の冠をいただくべきもの一人を
天の家に増しぬ
天に一人を増しぬ 曇りし日もこの一念に輝かん
感謝 讃美の題目 更に加はり
吾らの霊魂を天の故郷にひきかかぐるくさりの環
さらに一つの環を加へられしなり
家に一人を増しぬ 分るることのたえてなき家に
一人も失はるることなかるべき家に
主イエスよ 天の家庭に君と共に坐すべき席を
我らすべてにも与えたまえ
・・・こんなふうに、誰とでも共有できる祈りの言葉を禅や仏教の教えに照らして誤りのないものを提示できればと思いながら、学んでおります。