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拙著『坐禅に学ぶ』にある、「禅による喪の作業」です。
悲嘆とは、大切な人を亡くした後に起こる身体や心の変化のことです。
大切な人を亡くすということは、我が身を引き裂かれるほど辛く苦しいものです。その喪失感は、あなたに悲しいという気持ちだけではなく様々な変化を引き起こします。もちろん個人差がありますが、怒りや罪悪感、不安や孤独感、倦怠感や落ち込み、不眠や体調不良などが現れます。
私たちは生老病死の命を生きています。生まれたからには老い、病を得、やがて死を迎えなければなりません。また、人生には不条理な出来事や予測の出来ない災難も起こります。
私たちは、悲嘆は誰にでも起こるものであると、まず知らなければなりません。そして、もっと我が身に引き寄せて、悲嘆は、自分自身も避けては通れないものであると受け止めなければならないでしょう。
悲嘆からの回復をグリーフワークといいます。その回復の段階を学ぶということはもちろん大切です。と同時に、私たち人間は、そんな単純なものではないということを忘れてはなりません。
また、時薬、日薬という言葉があるように時間が悲しみを癒してくれる一方で、時がすぎて3回忌を終えた頃から、一気に悲嘆の反応を見せることもあるのです。
だから、私は思うのです。悲しみを乗り越えるとか、悲しみから立ち直るという言葉は、本当はそぐわない、と。やはり、悲しみは抱き続ける智慧と勇気を持つ事が大切だ、と。
悲嘆からの回復について、禅から何かアプローチはできないかと、私は数年来考えてきました。
というのも、かつて私自身もそうであったからです。そして、大切な方との死別から禅に入る方が多い現状に対し、何か指針となる手だてはないだろうかと模索しております。
私の場合、本当に幸いな事に原田湛玄老師とめぐり合い、「ひとつながりのいのち」があることを、坐禅を通じて教えていただきました。そのいのちを知り、気付き、信じ、体現していく生き方があるのだと教えていただきました。
けれども、誰もが皆、禅のお坊さんの道を歩めるかというと、そうではありません。仕事もあれば、それぞれの事情もあります。悲嘆からの回復のために、禅寺に飛び込んでの修行というのは重過ぎるでしょう。
そこで今、御縁ある方にお勧めしている方法をご紹介いたします。
これは、「禅による喪の作業」と名付けております。
- 坐相は坐禅と同じです。後ろ頭で天を衝くようなつもりで、身体を真っ直ぐにします。手を法界
- 定印にします。
- 足は組んでも組まなくてもいいですし、イスでも結構です。
- 欠気一息、左右揺身をし、坐禅をはじめましょう。けない、引きづらない、もたない、つかまないとお伝えしていますが、いいと思うのです。いえ、想いを追わずにいられない時は、逆らわない 覚えていてほしいことは、瑩山禅師は、『坐禅用心記』において、「若しつまり、心が沈んでしまう時には、その心を髪際眉間に置き、また、心
- が乱れてしまう時には、その心を鼻さきか丹田におきなさい、と。
- 昏沈する時は、を髪際眉間に 安ず。若し散乱する時は、を鼻端丹田 に安ず。」 と示されております。
- ことも必要でしょう。
- 禅による喪の作業ではあまりに悲しい時や辛い時には、想いを追っても
- 坐禅の時は、浮かんできた想いを相手にしない、邪魔にしない、追いか
故人の想いを追う中で、あまり自らの心を持て余すならば、禅による喪
の作業を終わりましょう。時間を置いてみましょう
- 最後は手を合わせ、この坐禅の功徳を〇〇様に供養しますと念じます。
道元禅師は『正法眼蔵・弁道話』で「しるべし、たとい十方無量恒河沙数の諸仏、ともにちからをはげまして、仏智慧をもて、一人坐禅の功徳をはかりしりきわめんとすというとも、あえてほとりをうることあらじ」
と示されております。
つまり、多くの仏様の力をもってしても、坐禅の功徳を計り知ることは
できないのだ、と。この功徳を大切な方に届けるのです。
以上が、禅による喪の作業です。これを続けることで、あなたの心が落ち着きを取り戻し、坐禅との御縁を深く結ぶことができるでしょう。
この世には、悲しみの深さを味わうことなしには学べないものがあります。
深い悲しみの底で、今まで積み重ねてきたことが全く無力であったと知った時、そこには、新たな気づきがもたらされます。
故人の命の尊さを学ぶことで、あなた自身の命の尊厳を知り、ひとつながりのいのちに気付く歩みとなるでしょう。