人生の午後のある日 長田弘

話のための話はよそう。
それより黙っていよう。
最初に、静けさを集めるのだ。
それから、テーブルの上に、
花と、焼酎を置く。氷を詰めた
切子ガラスに、透明な焼酎を滴らし、
目の高さにかかげて、
日の光を称え、すこしずつ
溶けてゆく氷の音に耳を澄ます。
そうやって、失くしたことばを探す。
フリードリヒ・グルダのバッハを聴く。
じっと俯いているようなバッハ。
求めるべきは、鋭さではないのか。
グルダのバッハには激しさが欠けている。
そう思っていた。そうではなかった。
グルダのバッハには何か大切なものがある。
激情でなく、抑制が。憤りでなく、
目には見えないものへの感謝が。
わたしたちは、何ほどの者なのか。
感謝することを忘れてしまった存在なのか。
おおきく息を吐いて、目を閉じる。
どこへもゆけず、何もできずとも、
ただ、透明に、一日を充たして過ごす。
木を見る。
空の遠くを見つめる。
焼酎を啜り、平均律クラヴィーア曲集を聴く。
世界はわたしたちのものではない。
あなたのものでもなければ、他の
誰かのものでもない。バッハのねがった
よい一日以上のものを、わたしはのぞまない。