『大法輪』四月号に寄稿したものです。
徳成寺の墓地が綺麗なのには、理由がありました。

 

 

私がご縁を頂いたお寺は福島県郡山市にあります。お寺の墓地は境内にもありますが、その多くは道路を隔てたところにあります。その墓地を十年間、毎週月曜日と木曜日、欠かすことなく墓地の清掃をする篤信のお世話人さんがいました。雨の日だろうと、風の日だろうと一日も欠かすことなく清掃を続けられました。おかげで、綺麗な環境が保たれたなかでお参りができます。

 

その篤信のお世話人さんが仰いました。清掃を始めた頃は、亡き両親のために自宅の墓地のみを清掃していた。けれどもいつしか我が家だけではなく墓地全体を掃除しようと思うようになった、と。それは誰に勧められたわけでもなく、自らが定め行ったまでだ、と。

 

やがて、他のお檀家さんは気づくことになります。そのお世話人さんのおかげで我が家の墓地まで綺麗になっていることに。そうして十年間、黙って掃除を続けた頃、そのお世話人さんは体調を崩し掃除ができなくなりました。それを知った他のお世話人さんたちの話し合いで、その方の志を継ぎ学ぼうと意見が纏まりました。以来、毎週月曜日、お世話人さんたちが二人一組となって墓地の掃除を続けてくださっています。

 

墓地掃除をはじめたお世話人さんは今年二月にお亡くなりになられました。頑健であった身体は病のせいで小さくなっていました。年初めに訪ねた私に「全く動けなくなってしまった。まだまだ仕事をしたい、身体がご飯を受け付けなくなったことが本当に悔しい」と涙ながらに語られました。しかし、何も出来なくなったのではありません。そのお姿にあって尚、人間のはたらきかけようとする心は已まないものであることを、また、移り変わっていくいのちは潔く頂戴しなければならないことを私は深く教えていただきました。

 

 

仏道はどこからではじめられるものです。「今・ここ」のそのままの私から、はじめれるものです。

 

 

お釈迦さまはお示しになられています。
「他人(ひと)の邪曲(よこしま)を観(み)るなかれ 他人(ひと)のこれを作(な)し かれの何を作(な)さざるを観(み)るなかれ ただおのれの 何を作(な)し 何を作(な)さざりしを 想(おも)うべし」
〈ダンマパダ五十 〉『法句経』友松園諦・講談社学術文庫