生死の中の雪ふりしきる 山頭火

 

命の姿を、曹洞宗の僧侶であった俳人 種田山頭火は句集『鉢の子』に、「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり(修証義)」と前書きして、「生死のなかの雪ふりしきる」と詠みました。

 

「雪ふりしきる」日々を生きるなかで、私たちには「生とは何か、死とは何か」という問いが生じてきます。この問いを温め続けると、畢竟、「己とは何か」という問いに帰結します。なぜならば、人生の主人公は他ならぬ自分だからです。

 

「己とは何か」を知るために修行僧は師を求め、遍参しました。「己とは何か」に逢うために薄い粥をすすり、貧を貫き、足を組みました。

 

そして、文字通り命懸けとなって「如何なるか、仏法滴々の大意」と師に問いました。この問いに、ある老師は無と言い放ち、ある老師は黙って指を立て、また、ある老師は庭前の柏樹子と応じました。しかし、修行僧に降る雪は勢いを増し、彼の前に差し込んだ一条の光さえをも晦ましてしまいます。

 

私自身、禅に触れた頃「成仏道」という言葉と巡り逢いました。随分と苦しい想いをした時期でしたが、原田祖岳老師の著書『人生の目的』にあった「吾人は成仏道の過程にある」という一文をみて、身体が震えるような感銘を受けました。他人には話せないような「今・ここ」でも、自分は仏になる道を歩んでいると受け止めた時、この現状にも意味があり、この嫌で厭でたまらない自分にも光があるのかもしれない、と思えたのです。しかし、だからといって、それで全てがすぐに解決したわけではありません。坐禅をすればするほど、何もわからなくなってしまった時期もあります。恥ずかしながら、仏縁までも放り棄てようとしたこともあるのです。

 

私たちの人生は、どこにいても雪が止むことはありません。粉雪が舞う時もあれば、荒々しい吹雪に凍え震えて一歩も動けない日もあります。

 

けれども、お釈迦さまの視点を学ぶ姿勢を保つことで、己のなかに人生を見下さずに肯定していく逞しい力が備わっていたことを、雪が教えてくれます。

 

ふりしきる雪を嘆くことはない、打ちひしがれたりすることはないのだ、と。

 

   拙著『そのままのあなたからはじめる修証義入門』(雄山閣)より抜粋