己事究明
私の人生 私の時間 私の自由
私の仕事 私の家族 私の幸せ
私の友人 私の趣味 私の財産
最期は 私らしい葬式
そんな「私」ばかりでは息苦しい
己事究明とは、「私とはなにか」を明らかにすることです。
とにかく、「私が」の人生に、「私が」の一生です。
だからこそ、仏教では、よくよくその「私」に眼差しを定めてごらんというのです。
するとどうだろう、実は、あなたの考えている「私」という塊はないんだよ、っていうのです。
「私」が先に存在しているのではなく、無量無数の因縁によって「私」が成り立っている。そして、無量無数の因縁もまた私なんだって、ことに気付くよって。
そうすれば、どうなるのでしょう。
「私が」から「私たちが」という視座が育つのです。
己事究明を深めることによって、「私が」という視座で生きてきたのだけれども、もう一つ、いのちに親しい在り方、つまり、「私たちが」という視座が開けてくる。
そして、ここが大切なんだけれども、その視座を手に入れたとしても、苦しさはなくならない。なくならないのだけれども、それでも「今・ここ」が宝処だと手をあわすことができる。